レギュラーをはく奪された田中広輔
かつてカープ3連覇当時、菊池、丸とともに「タナ・キク・マル」の上位打線をけん引した田中広輔ですが、自身の不振と小園の台頭により、出場機会が激減しました。そこで、カープの過去の遊撃手がたどった末路から、今後の田中広輔を占ってみました。
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田中広輔の実績
田中広輔は、2013年、JR東日本からドラフト3巡目で入団します。当時、田中広輔がこの順位でよく残っていたとスカウトやオーナーが喜んでいましたね。
田中は、2014年、ルーキーの時からほぼ1軍に帯同し、当初はサードでしたが、8月ころから、当時のレギュラー梵のケガもあり、ショートのレギュラーに定着します。
それから、3連覇の最終年である2018年までショートのレギュラーでしたが、2019年は極度の不振により、フルイニング連続出場や連続試合出場の記録も途絶えています。結局、この年93試合に出場、打率193、ホームラン3、打点27、盗塁8という低調な成績に終わっています。
2019年オフには膝の手術を行い、翌2020年は、ショートのレギュラーを奪い返したものの、2021年は再び精彩を欠き、プロ入り後最低の成績に終わっています。
カープ歴代の主な遊撃手の末路
カープは歴代、優秀な遊撃手を輩出していますね。主なメンバーでは、初優勝時の三村敏之、33試合連続ヒットの日本記録保持者である高橋慶彦、2000本安打の野村謙二郎、暗黒期の梵英心などが挙げられます。
では、彼らの末路はどうなったのか見てみましょう。
三村敏之
三村敏之氏は、1966年ドラフト2位で入団すると、4年目の1970年からショートに定着し、1975年の初優勝のときには、大下と二遊間を組みました。1976年まで不動のショートでしたが、1977年は木下、高橋慶彦との併用、その後はポジションを高橋慶彦に明け渡し、サードやセカンドにコンバートされました。
三村の場合、ショートの座は奪われましたが、他のポジションで活躍し、1979年にはカムバック賞を受賞しています。
高橋慶彦
高橋慶彦氏は、1974年ドラフト3位で入団すると、4年目の1978年からショートのレギュラーに定着します。その後、長年ショートのレギュラーとして活躍しますが、1987年、球団行事の時期を巡り、当時の松田元オーナー代行と大喧嘩したこともあり、1989年オフにロッテへトレードされました。
その後は、野村謙二郎ですが、高橋慶彦が仮にそのままカープに残留したとしても、ショートのポジションは野村謙二郎に明け渡した可能性が高いと思います。
野村謙二郎
野村謙二郎氏は、1988年ドラフト1位で入団すると、2年目の1990年には、トレードで放出された高橋慶彦が守っていたショートのポジションを掴みました。
野村は、1990年から長年ショートで活躍しますが、1998年以降再三ケガに悩まされ、ショートのポジションはディアスや東出などに奪われました。そのため、自身はセカンド、サード、ファーストでの出場が多くなっています。
梵英心
梵英心氏は、2005年ドラフト3巡目で入団すると、2006年には主にセカンドを守り、ショート東出と二遊間を組みます。2007年からショートのポジションを掴みますが、2008年、2009年と小窪にショートのポジションを奪われます。
2010年にショートのポジションを奪い返しますが、2011年はケガで離脱、2012年、再びショートのレギュラーを奪います。
ただ、2013年は安部などと併用、そして2014年は田中広輔にポジションを奪われました。田中広輔にレギュラーを奪われた後はサードなどで出場しています。
まとめ
以上のとおり、歴代の主なショートの選手について振り返ってみましたが、三村敏之→高橋慶彦、高橋慶彦→野村謙二郎、梵→田中広輔と、後釜の選手が大物であると、なかなかポジションを奪い返すのは難しいですね。
試合には出れてもサード、ファーストなど他のポジションに回る選手が多いようです。ただ、梵のように、ポジションを奪い返すケースもあります。
田中広輔は、32歳と年齢的にこれから落ちてくるので、厳しいかも知れませんが、頑張ってほしいですね。
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