元カープの選手、スカウトのフィーバー平山
報道によると、元カープの選手で、スカウトも務めたフィーバー平山さんが死去した模様です。享年91歳で死因は不明とのことです。
3拍子揃った選手
さすがに私もフィーバー平山氏の現役時代を知らないので、ウィキペディアで調べてみました。すると、フィーバー平山氏は、カリフォルニア生まれの日系人で、本名を平山智といい、1955年にカープに入団しているようです。
当時は、3拍子揃った外野手で、1955年から1964年の何と10年間もカープでプレーしたようですね。最近、エルドレッドとか長く在籍したと話題になりましたが、はるかに長かったんですね。
この間、オールスターにも2回出場していますし、1962年から1964年までは選手兼任コーチ、1965年には専任コーチを務めているようです。
近年、外国人助っ人の野手と言えば、大砲というイメージですが、当時はそうではなかったのかも知れません。
タイプでいうと、ブラウン、アイルランド、シーツ、ディアスといったところでしょうか。
1975年からスカウト
私が馴染みがあるのはやはりスカウト時代ですね。当時の古葉監督の要請でスカウトになったそうです。ただ、現役時代、当時まだ本土復帰をしていなかった沖縄の安仁屋氏をスカウトするため、アメリカ国籍で自由に往来が可能であったフィーバー平山氏が口説いたようですね。安仁屋氏の父親がこの熱意に押され入団を決意したとか。
カープ初優勝の影の立役者
1975年、カープは初優勝を飾りますが、この年、大きな変革を行いました。日本プロ野球初の外国人監督、ジョールーツ、帽子の色を赤色に、トレードも大胆に行いました。
奇しくもフィーバー平山氏が口説いた安仁屋氏を阪神、若生と交換したのを始め、阪急、日本ハムとも積極的にトレードを行い選手を入れ替えます。
また、外国人もヒックス、マクガイアに替えてホプキンス、シェーンを加入させます。このホプキンス、シェーンはフィーバー平山氏が加入させたようです。
ホプキンスは主に3番、シェーンは6番を打ち、初優勝に大きく貢献しました。この外国人が外れであれば、もしかしたら優勝はなかったかも知れません。となると、フィーバー平山氏の力は大きかったと言えるのではないでしょうか。
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次々と優秀な助っ人を送り込む
ホプキンス、シェーンに代わって、1977年からはライトル、ギャレットを加入させます。この二人はカープ初の日本一に貢献しました。
その後もロペスやアカデミーのチェコを送り込むなど、彼の眼力は素晴らしかったですね。
何と阪急にも
当時は、阪急の上田監督とも懇意にし、マルカーノやウイリアムスの入団にもかかわっていたようです。上田監督も元はカープの選手、コーチでしたからね。
フィーバー平山氏のご冥福をお祈りします
以上のとおり、カープ黄金期を支えた影の立役者といってもいい、フィーバー平山さん。ご冥福をお祈りします。
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