村田兆治氏が自宅火災で死去
広島県本郷町(現三原市)出身で、元ロッテのエース、村田兆治氏が、本日、自宅火災による一酸化炭素中毒で死去されました。村田氏といえば、マサカリ投法、日本球界で初めてトミー・ジョン手術を行い、215勝を挙げるなど大活躍しました。ドラフト当時、地元広島出身でカープとも相思相愛でしたが、指名順位が上だった東京オリオンズに指名され、カープとは縁がありませんでしたが、記憶にも記録にも残る偉大な選手だっただけに残念でなりません。
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東京(ロッテ)入団前の村田氏
村田兆治氏は、1949年11月27日、広島県豊田郡本郷町生まれ、享年72歳、間もなく73歳を迎えるところでした。
村田氏は、小学5年生のとき、父親に連れて行ってもらった広島市民球場でカープを観戦した際、プロ野球に強い憧れを持ったようです。
その後、福山電波高校(現近大附属福山高校)に進学し甲子園を目指すものの、あと1歩及ばず。ただ、球速150キロは出ていたようで、当時、カープ伝説のスカウト木庭氏がドラフト1位を確約したそうです。
村田氏もカープファンなので相思相愛でしたが、当時のドラフトは抽選で指名順を決める方式で、カープはなんと最下位12番目、指名順6位の東京オリオンズ(現ロッテ)が村田氏を1位指名しました。
村田氏もオリオンズに入団するかどうか悩んだそうですが、夢はプロ野球選手だったので、そのまま入団したとか。また、オリオンズに入団しても、将来、カープに移籍できるかもしれないと思っていたそうです。
ちなみに、カープのドラフト1位は、電電近畿の井上外野手でした。カープには5年間在籍しますが、その後中日にトレード。
カープが初優勝した1975年には、山本浩二氏と熾烈な首位打者争いを繰り広げましたね。
東京(ロッテ)入団後
オリオンズの当時の監督は、濃人渉氏。濃人氏も広島出身で、同郷の村田氏をかわいがったそうですね。
1971年からは、「マサカリ投法」で投げるようになり、ロッテが日本一になった1974年にはシーズン12勝、日本シリーズ第6戦で完投勝利を収め、胴上げ投手になっています。
ただ、1982年に肘を痛めたため、翌年、渡米しフランク・ジョーブ博士による左腕の腱を右肘に移植するトミー・ジョン手術を受けています。
当時、肘を手術することはタブー視されていましたが、翌1985年に開幕から11連勝するなど、17勝5敗の成績でカムバック賞を受賞。また、現在は週1回登板が主流ですが、当時としては珍しく、週1回、日曜日に先発するため、「サンデー兆治」と呼ばれましたね。
結局、現役通算215勝177敗33セーブ、防御率3.24という成績を残しています。
現役中、カープが強ければ、カープと対戦したい、逆に弱ければ、カープに補強してもらかったと、後年、語っています。
現役引退後
村田氏は、1990年に引退しますが、1995年にダイエーのコーチに就任します。
この年、ヘッドコーチが寺岡氏、打撃兼走塁コーチが高橋慶彦氏、バッテリーコーチが達川氏とカープOBで固められていました。
当時の監督は王氏でしたが、当初は古葉氏が監督をするため、このようなコーチ陣にしたとかという噂も流れていましたね。
カープ自体とは縁がありませんでしたが、ダイエーの古葉監督も見てみたかったですね。
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最後に
村田氏は、今年9月、羽田空港で女性保安検査員の肩を押したとして暴行容疑で現行犯逮捕されました。ただ、本人はちょっと触れただけだと釈明していましたね。
晩年は、不遇な形でしたが、広島出身で、カーファン、引退後は広島市民、広島県民のために役立てることを考えているとも話していました。
偉大な選手がこういう形で亡くなられるというのは残念でなりません。
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